急ぐことはない、どこかで一杯い引っ掛けていくか。~富士山頂という人生~

 
 
 昔、ライフ・イズ・ビューティフルと言う映画を見た。
 対戦中ナチスによって強制収容所に連れてこられた親子、父は母と別れて淋しがる息子に嘘をつく。
 「これはゲームなんだ。いい子にしていたらママにもすぐに逢えるよ。そうして本物の戦車に乗っておうちへ帰れるんだ」
 父は処刑されに連れて行かれるときも息子におどけて見せる。父を愛し、ゲームを信じていた息子は、彼が楽しい遊びをしに行くのだと思って、キャッキャと無邪気に笑うのだった。
 
 
 面白い議論を読んだ。
 「人生の目的は死である」
 人が生まれて死ぬのは真理だから、人生のすべての目的は死であって、その本来の目的を忘れ生を楽しむ人々はトンチンカンな目的を遂行しているアホだ。
 と言ったような命題に対して、人々がレスをすると言うものだ。 (原文)
 反論はこうだ。死は生の結果であって、目的ではない。
 その他様々な、この真理は事実か否か、の議論が展開するのだが、なるほど~と思いつつ、途中で飽きてしまった。
 議論そのものがトンチンカンではないかと思えてくるのだった。(しかし、ラストも含め、なかなか読み応えがあったので、是非一読をお勧めしたい)
 
 人生の目的は議論の余地なく、死である。
 この命題は事実だろう。
 ただ、だからと言って、生を楽しむ人々が、ゴールを忘れて快楽に走り、嘘に身を固め、自己欺瞞をしているかというと単純にそういう訳ではないと思う。
 死と言うゴールをネガティブな陰のものとし、生を楽しむ行為をポジティブな陽のものと捉えるから、話がおかしくなるのだ。
 私が想像する生は富士、たとえば夜から富士山頂に向けて人類全員で登っているところを想像してみてほしい。見えるだろうか? 私の人生のイメージはそんな感じなのだが、生きることそのものがそもそも3776mもの登山なのだから楽しいわけがないのだ。
 なのになぜ登るのか。そこに山があるからだという冗談は置いておいて、答えは仮定の命題どおり、山頂へたどり着くためだとする。
 すると、体力のない人は途中で高山病になったりする。息はつらいし、体は痛いし、もう登れないと途中で座り込む。山頂へ近づくほど高齢になり、体力も衰えるわけだ。ますますつらくなってくるだろう。
 人間は頭がいい。
 なので、様々な「目的」を設定する。
 お金を使ってショップを作る。可愛いデザインで色鮮やかな登山服を作る人が現われ、それを着てはしゃいで登りはじめる女性たちがいる。美味しいおでんやラーメンの屋台を開く人々が現われ、それを食べて元気にまた登りはじめる野郎どもがいたりする。
 子供は飽きっぽいから、登山中親になったら登山をしながらサッカーをしたり、ダンスを見せてあげたりする。仲間をたくさん作って、励ましあい、または楽しくお喋りしながら登る。ひとりで黙々と登る人もいるだろう。ゴールは近くなるが、頂上に着くまでに何もなさないと、あまりいいゴールとは言えない。
 この人生登山は、山頂が目的なのだから、無論ゴールへたどり着く上での順位があるのだ。
 これはタイムではない。
 どうやって、ゴールにたどり着いたかが問われるのである。
 山道に空き缶や煙草の吸殻を捨てなかったかとか、並んで歩く順路を無視して近道しなかったかとか、途中苦しんで登れなくなっている人を励まし一緒に頂上まで登ってきたかとか、ハイカーと協力し登山する人々皆を盛りあげたかとか、お金をかけてこの富士山登山コースを楽しい充実した設備を作ったかとか、登山自体をより良くしたか、などなど・・・
 これらが陽かと問われると難しい。
 私には山頂こそが陽なのだ。
 ここではゴールの順位に関係なく、たどり着いたものは皆例外なく、ご来光を見せてくれる。
 まばゆい朝日、夜のなか苦しい山道を登り続けてきた私にとっては最高のご褒美だ。涙ぐむかもしれない。フランダースの犬のように、天使の降臨さえ見えてくるかもしれない。
 登山ってまんざらでもないじゃん… と。
 
 ところで、登山がつらくてリタイアするとどうなるか知ってますか?
 座り込んで誰も助けてくれなかった人や、もう登らないと駄々をこねた人々のために、時々ヘリコプターがやって来ては、そういう人々を山頂まで運んでくれるのだ。
 もちろんこう言うズルをした人が山頂へ行くと、時間が早すぎたんだろう、ご来光は見られない。夜の闇の中、人々もまだ誰も着かぬ中、寒い頂きで震える羽目になる。おまけに次回の人生ではエヴェレストの登山をさせられるそうだ。
 8848mはそりゃつらかろう。
 私は諦めて、また富士を登りはじめる。
 
 
 
 
  

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